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宮崎地方裁判所 昭和59年(ヨ)127号 判決

債権者

甲野花子

右訴訟代理人

鍬田萬喜雄

債務者

佐土原町土地改良区

右代表者理事長

佐藤繁信

右訴訟代理人

殿所哲

主文

本件申請を却下する。

訴訟費用は債権者の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  債権者

1  債権者が債務者に対し、雇用契約上の地位を有することを仮に定める。

2  債務者は、債権者に対し、昭和五九年四月から毎月二一日限り一か月金一七万九四〇〇円を仮に支払え。

二  債務者

主文同旨

第二  当事者の主張

一  申請の理由

1  債務者は土地改良法に基づき宮崎県知事の設立認可を受け、土地改良事業を行う法人である。

債権者は、昭和四五年一二月一日、債務者に雇用され、庶務、会計の事務に従事してきた。

2  債権者の賃金は一か月金一七万九四〇〇円(毎月二一日支給)である。

3  債務者は、債権者が昭和五九年三月末日をもつて退職したとして同年四月から賃金を支払わない。

4  債権者は、夫が失業中であるばかりか、夫の年老いた両親、短期大学在学中の子女を抱え、しかも住宅のローン支払等もあつて、生活が窮迫している。

よつて、債権者は債務者に対し、債権者が雇用契約上の地位を有することを仮に定め、賃金を仮に支払うことを求める。

二  申請の理由に対する答弁

申請の理由1ないし3の事実は認め、同4の事実は不知。

三  抗弁

1  債権者は、債務者に対し、昭和五八年一一月三〇日、昭和五九年三月末日をもつて退職する旨の退職願を提出した。

2  債務者は、債権者に対し、昭和五九年三月三〇日付の書面で、右1の退職願により、同月三一日をもつて職を免ずる旨通知した。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実は認める。

五  再抗弁

1  錯誤による無効

債務者改良区の職員服務規則によれば、「本人の都合により退職を願い出て土地改良区の承認があつたとき」には「その日を退職の日として職員としての資格を失う」と定められ、これ以外の理由による退職の意思表示は効力を生じないものと解すべきところ、債権者の退職の意思表示は、自己都合によるものではなく、右の「本人の都合による」とする退職要件に重大な錯誤があつたものである。

2  心裡留保による無効

債権者の退職の意思表示は、真に退職する意思がないままなされたもので、債務者はその真意を知つていた。

3  強迫を理由とする取消

債務者代表者は債権者に対し、任意退職しなければ懲戒免職とし、退職金も支払わないなどと申し向けて強迫し、債権者はこれに畏怖してやむなく退職願を提出したものである。

そこで債権者は、債務者に対し、昭和五九年三月上旬及び同月二五日付の書面でこれを取消す旨の意思表示をした。

4  退職願の撤回

債権者は、債務者に対し、債務者による退職の発令がなされる前の昭和五九年三月一〇日頃及び同月二五日付の各書面で退職願を撤回する旨通知したので、債務者による退職の発令は効力を生じない。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁1、2の各事実は否認する。同3のうち強迫があつたとの事実は否認し、取消の意思表示がなされた事実は認める。同4のうち、退職願撤回された事実は認める。同1ないし4の各法律上の主張は争う。

七  再々抗弁

債権者の退職願の撤回は、債務者の規模、事業内容、債権者所属の組合及び上部団体と債務者との交渉、債権者の主張及び退職の申出債務者理事会及び総代会の対応など退職願提出前後の経緯に照らし、これによつて債務者に不測の損害ないし困惑等を不当に強いることになるのであつて、信義則に反するものとして無効である。

八  再々抗弁に対する認否

再々抗弁は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一申請の理由1ないし3の事実及びこれに対する抗弁1、2の事実については、すべて当事者間に争いがない。

二退職願の効力

1  退職願提出前後の経緯について

〈証拠〉によれば、以下の事実を一応認めることができ〈る。〉

(一)  債務者改良区は、設立後昭和五四年ころまでの間に、その主な目的とするところの地区内の土地改良工事をすべて終え、その後は、県営綾川土地改良事業によつて造成された地区内施設の維持管理を主な事業としていた。

そして、債務者改良区では、地区内の改良工事に着工後、債権者、訴外佐藤薫の二名の事務員が総代、理事、監事の固有の事務を除くすべての事務を担当していたが、債務者固有の改良工事が完成した昭和五四年ころから後は事務量が減少し、事務員一名で十分にまかなえる労働量となつた。

債務者改良区の経費は、その大半(概ね八〇パーセント前後)が約六〇〇名の組合員が拠出する賦課金によつてまかなわれ、右工事完了後は、事務員に対する人件費の割合が高くなり、昭和五七年度における自主財源(経常賦課金、雑収入、繰越金等)に対するこの人件費の割合が六二・五五パーセントとなり、近隣の一ッ瀬土地改良区、綾町土地改良区のそれに比して約三倍程度となり、組合員の負担する賦課金の額も他の改良区の倍額以上となつた。

一方、債務者改良区は、前記のとおり、主な事業たる土地改良工事を完了しており、債務者改良区が解散することになつても、担当している施設の維持管理は綾川総合土地改良区によつて行なわれることになるので、その独自の存在意義も薄らぐに至つていた。

(二)  債務者改良区の内部においては、右(一)のような現状に対し組合員の不満は増大し、債権者ら事務員を雇用する目的のみのために改良区を存続させていることになる等の意見さえあがり、他方、監督官庁からも人件費割合が高いとの指摘を受け、理事会がその打開策を協議することになつた。

理事会では、まず綾川総合土地改良区との合併を検討したが、同改良区は、債権者ら二名の事務員の雇用を続けるのでは合併に応じないとの意向であるため、結局、債務者改良区職員服務規則三三条三号の「一部事業の縮小廃止其の他止む得ない事業上の都合によるとき」は理事会の決議を経て職員を解職できる旨の規定に基づき、事務員一名を解職し、これにより人件費を削減して組合員の賦課金を減少させる方向で検討を進めることになつた。

債務者改良区は、右の方針に基づき、昭和五八年四月二五日開催の理事会で、同年九月末日をもつて債権者を解職すること及びその通告については暫時猶予期間をおくことを決議した。ところが、同年五月ころ、債権者と訴外佐藤薫の二名の事務員が佐土原土地改良区職員労働組合を結成し、宮崎地区労働組合評議会(以下、地区労という。)に加盟し、団体交渉を申し入れた。そこで理事会は、右組合及び上部団体たる地区労との団体交渉を進め、その中で合意に至るよう努力することとし、債権者退職後の受け入れを関係機関に陳情するなどしながら交渉を続け、結論の出ないまま同年九月末日を経過した。

同年一〇月に至り、債務者改良区、組合、地区労の間において、債権者が昭和五九年三月末日に退職し、その後昭和六一年三月までは債務者が嘱託として雇傭するとの案がまとまり、地区労がこの案をもつて債権者を説得することとなつたが、昭和五八年一一月一〇日、地区労から債務者に対し、債権者の説得が不可能なのでこの問題について地区労は手を引くとの回答があり、交渉はふりだしに戻つた。

債務者改良区は同年一一月一八日、理事会を開き、それまでの経過をふまえ、結局前記債権者解職の手続をとるほかないとして、同月分までの債権者に対する給与支払のための補正予算を組み、同月三〇日に開く臨時総代会において右予算の議決を求め、併せて債権者の解職を報告することを決議し、同月二六日の理事会でもこれを確認した。

(三)  債権者は、担当していた庶務の仕事を通じ、理事会、総代会に関する書類の作成、録音テープに基づく理事会議事録の作成に関与しており、債務者改良区の以上の方針や決議、債権者に対する対応等諸々の経緯を知悉していた。

債権者は、総代会開催当日である昭和五八年一一月三〇日午前九時三〇分ころ、債務者改良区理事長佐藤繁信に対し、昭和五九年三月末日をもつて退職するので、それまで雇傭して欲しい旨を口頭で申し入れた。

佐藤理事長は、それまでの経緯に照らし、予想外の急な申し入れであつたため、総代会出席のために集合していた理事席に赴き、急拠理事会とし、この債権者の申し入れを報告したところ、議論の末、理事会としては、債権者の右申し入れの意思が確実であることが確認できるならばこれを受け入れることとし、そのために債権者に退職願及び誓約書を提出させた。

各理事は、その後、出身地区の総代に対し、個別に右の経緯を説明するなどして根まわしを行なつた後、引き続き午後一時三〇分から開かれた総代会において、昭和五九年四月以降は人件費削減によつて賦課金が減額されることが確実となる等と説明して総代の理解を求め、補正予算案を債権者に対する昭和五九年三月までの給与支払が可能となる内容に改めたうえ提出し、これが承認された。

その後、債権者、債務者間には格別の動きもないまま推移し、債務者改良区では昭和五九年一月下旬から三月上旬ころまでの間に、債権者の退職を前提とする昭和五九年度予算案が編成された。

2  錯誤無効の主張について

〈証拠〉によれば、債務者改良区の職員服務規則には債権者主張の内容の規定が存在することが認められる。しかしながら、この規定及び他の諸規定を検討しても、退職の理由を「自己の都合による」ものとする以外の合意による退職を否定するものとは解されず、債権者の退職をする旨の意思表示の内容自体にその真意との不一致は認められないのであつて、他に錯誤にあたる事実を認める疎明もない。

3  心裡留保の主張について

前記認定事実によれば、債権者において、退職の申し入れ当時、これが真意に基づかないものであつたことを窺わせる事情はない。仮に真意に基づかないものであつたとしても、右申し入れに対する債務者理事会の対応等に照らし、債務者において、これを知り、または知りうべきであつたとすることもできない。

4  強迫について

前記認定事実によると、債務者は、債権者が地区労の妥協案による説得にも応じず、地区労もこの問題から手を引いたため、止むなく理事会で解雇の決議をし、その後昭和五八年一一月三〇日には臨時総代会を開催し、右解雇決議の報告と解雇に伴う補正予算の審議をすることを予定していたところ、債権者が同日の朝になつて昭和五九年三月末には退職するのでそれまで雇傭してほしい旨の申し入れをしたので、急きよ理事会を開催し債権者の申し入れを受入れ、改めて補正予算を組み直すこととしたが、ただ債権者の右退職の意思表示を確認し、明確にするため退職願を提出させたのであつて、右の経過からして債務者が債権者を強迫したこと、さらには債権者が強迫によつて退職の意思表示をしたことを窺わせる事情はない。〈証拠判断略〉。

5 退職願撤回について

債権者の債務者に対する退職願の提出は、雇傭契約終了の合意に対する申し込みとしての意義を有し、これに対する債務者の承諾の意思表示により、雇傭契約終了の効果が発生するまでは、原則として自由に撤回することができるものと解するのが相当である。

しかしながら、この撤回が債務者に不測の損害を与える等信義に反すると認められるような特段の事情がある場合には、その撤回の効力は生じないものと解すべきである。

そこで本件についてこれを検討するに、前記認定の債務者改良区の事業内容、経費の原資、構成員の特質、退職願提出までの経緯、その後撤回までの期間、等の諸事情を総合すると、この撤回の効力を認めるとすれば、債務者が債権者の解職を前提として進めていた手続を債権者の意思による退職を尊重する方向で検討し直し、そのための措置をとつたうえ、退職予定時期後の事業改善のための体制が整つた段階に至り、債務者改良区の組合員、役員に大きな混乱と不測の損害を与えることになると解されるのであつて、かかる結果を生じさせる本件退職願の撤回は、信義に反するものとして効力を生じないものといわざるをえない。

三以上によれば、債権者、債務者間の雇傭契約は、合意によつて昭和五九年三月末日をもつて終了したものと解すべきであり、結局、債権者の本件申請は被保全権利につき疎明がないものとなる。

よつて、本件申請を却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官川畑耕平 裁判官伊藤正髙 裁判官若林辰繁)

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